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それぞれの正義があって、それぞれの主張や譲れないものがあると思う。

でも、考えて欲しい……

戦争の一番の被害者は、そこに住む何の落ち度もなく罪のない住民達だと思う。

なので、しょうもない金額で焼け石に水すらならない少額だとは思うが、彼らの苦痛や苦悩が一瞬でも一秒でも和らぐことができたらと思いで募金した。

色々考えたが、ユニセフ募金だけがウクライナ政府にではなくウクライナ民衆への募金につながるので、ユニセフにした。
https://www.unicef.or.jp/kinkyu/ukraine/ 


名護屋城にも行った。

名護屋城とは?

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国内統一を果たした豊臣秀吉は、大陸進出を目指すようになり、その前線基地として1591年(天正19)名護屋城の築城を「築城の名手」とよばれる加藤清正を始め九州各地の大名に命じ、「割普請」(分担工事)によって5カ月という短期間の突貫工事で、主要部の巨大な五重天守が建つ総石垣造りの大城郭を完成させた。
朝鮮出兵のための城(陣城)ながら城域は約17万㎡にも及び、金箔瓦を用いた五重七層の天守が建てられた。広大な御殿建築や10基を超える重層櫓、茶室、能舞台まで備わり、伏見城や聚楽第にも匹敵する絢爛豪華な城であった。



名護屋城を中心とした半径3km圏内には、全国から参集した大名たちの陣跡が130余も確認されている。城下町には約20万人が集まり「京をもしのぐ」といわれる賑わいで、豊臣秀吉の居城・大坂城に次ぐ規模だったといわれる。(現存する秀吉関連の城跡の中では一番広く保存状態がいいとのこと。)

全国から参集した諸将は名護屋城の周りに陣屋を構え、その数約130の陣屋跡が確認されている。1599年(慶長4)秀吉が病死すると戦いは終結。朝鮮半島から兵は撤退し、名護屋城も廃城となった。築城から約7年の短期間しか使われなかった、まさに豊臣秀吉が築いた「幻の名城」といえる。

名護屋城は廃城となり城の用材は唐津城の資材にされ、その後残っていた石垣も、寛永14年(1637)に起きた島原の乱の後、石垣が徹底的に破却された。

島原の乱では、天草四郎を盟主とする一揆軍が、廃城だった原城(長崎県南島原市)に籠城し幕府軍は攻略に苦戦した。鎮圧後、反乱に二度と使われないように原城は徹底的に破壊されました。

廃城であった名護屋城が、原城のように、不穏分子に利用されたことを教訓として破壊されたと考えられている。





東出丸
三の丸

井戸跡

本丸跡

本丸跡
本丸




天守閣跡

天守台跡
天守台跡からの展望








太閤井戸


山里口






茶室跡



二の丸

遊撃丸跡
名護屋城のジオラマ

天守閣



日本軍の火縄銃


日本軍船



対する朝鮮軍船(初期は日本軍が圧倒するもこの鉄の屋根がついた守備性能が高い軍船の登場で立場が逆転したという。)


秀吉陣羽織
李 舜臣(李氏朝鮮の将軍)


蔚山の戦い



慶長の役 (→文禄・慶長の役 ) で,加藤清正,浅野幸長らが兵2万余をもって朝鮮,慶尚南道の蔚山で戦った籠城戦。清正らは慶長2年 12月 20日来襲した明将楊鎬,麻貴の率いる明鮮連合軍約6万の兵に対し,翌年1月4日まで苦しい戦闘を展開し,ようやく,毛利秀元,黒田長政らの来援によってこれを撃退し,以後日本軍は本拠をここに移した。


前田利家陣屋跡





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発見当初、邪馬台国かもしれないと話題になった吉野ヶ里遺跡に行った。
せっかくいくならと邪馬台国についてかなり詳しく調べたのでかきたしておきます。

邪馬台国とは?

女王である卑弥呼が治める邪馬台国は、2〜3世紀に日本に存在したとして中国の『三国志』の「魏志倭人伝」に書かれた。

倭国は元々男王が治めていたが、国の成立後、倭国で長期間にわたる騒乱が起きた。そこで卑弥呼という巫女を王に共立することによって混乱が収まり、邪馬台国連合が成立した。弟が彼女を補佐して国を治めていた。邪馬台国と対立してしていた国は狗奴国(くなこく)といわれ、同じく位置の確定はできていない。
他に官として伊支馬、次に彌馬升、次に彌馬獲支、次に奴佳鞮を置いていた。戸数は七万余戸あったとされる。


「魏志倭人伝」には邪馬台国も含めた倭国(古代の日本)、倭人のことがいくつか書かれています。租税や労働によって支払われる地代の賦役(ふえき)を民から徴収していたことや、稲や苧(からむし)を育てていたこと、蚕を育てて絹織物を作っていたこと、戦う時の武器は矛、盾、木弓を使っていたことなど当時の様子を知る手がかりになりました。

「魏志倭人伝」に出てくる卑弥呼は、すでに高齢であり、政治については弟とともに国を治めており、ほとんど人前には姿を現さなかったようで、祈祷やシャーマンの力を使って争いをやめさせたと考えられている。 
卑弥呼は外交として魏の皇帝に使者を何度か送り、皇帝は卑弥呼に親魏倭王(しんぎわおう)という封号(爵位)を授け、たくさんの贈り物とともに銅鏡100枚を与えた。 
卑弥呼の死後は男王が争いを治めようとしましたがうまくいかず、卑弥呼の血縁である13歳の少女、壱与(いよ)が女王になり、国に平和が戻ったといいます。
壱与女王は266年に晋の武帝に遣使、朝貢している。

邪馬台国の位置は?大きく分けて2箇所

1、畿内説

奈良県の纏向遺跡(まきむくいせき)が有力視されており、卑弥呼の王宮跡らしき大型建物後がみつかり、その跡から祈祷で用いられる卑弥呼の時代と一致する桃の種が大量にみつかる。桃の種は祈祷で使われるそうだ。様々な土地の土でつくられた土器みつかる。これは色々な土地からこの遺跡に人々が行き交ったことを表す。
近畿にある日本最古の前方後円墳の箸墓古墳(はしはかこふん)の埋蔵品の土器の年代測定をしたところ卑弥呼死去年と一致し、また、土器のデータが「魏志倭人伝」に書いてあるものと合致したり、箸墓古墳の形状である前方後円墳の形は邪馬台国の時代に造られていたものだったりすることなどが、卑弥呼の墓ではないかと考えられている根拠なのだという。
さらに、当時近畿では水銀の原料である『丹』がとれ、皇帝への貢ぎ物として上納されたとされる。当時丹を産出していたのは近畿だけだった。

畿内説への異議としては、国土の広さが畿内より九州の大きさに近いという点や倭国の産物とされる弥生時代後期の鉄であること、絹は北九州のみで出土していること、邪馬台国の位置は北九州の伊奈国や奴国の南にあるという記述が「魏志倭人伝」にあること、などがあげられている。

2、九州説

「魏志倭人伝」から読み取れる邪馬台国から中国や朝鮮半島へのルートを計算すると九州の可能性が高いこと、九州の遺跡のつくりと「魏志倭人伝」の邪馬台国の記述にちかいつくりの遺跡が多い。
近畿の遺跡には描写の類似点はすくない。
また吉野ヶ里遺跡では鉄の出土品も多く、九州では鉄の矢じりの出土品も多いので、九州全体で戦乱があったの痕跡だと考えられ、戦乱をへて邪馬台国が平定したとみられる。そして、九州では硯の発見され(対して近畿0)、これは文字を使う高度な文明国家連合が九州にあった証拠になる。

九州北部の平原王墓では魏からおくられた可能性のある後漢鏡がたくさん発掘されていることなどから卑弥呼の墓の可能性もありと示唆されている。
「魏志倭人伝」によれば、倭人男性は刺青の習慣ありとされ、当時の日本では九州だけが刺青の風習があり、運搬手段にも倭に牛馬なしとあるので、大陸への距離が近く海の交通の便がいい九州が最有力になる。





物見櫓
南内郭には4棟の大きな高床建物があります。
これらは環壕の張り出した部分に対応するように建てられており、兵士が南内郭への侵入者を厳重に見張っていたと考えられています。


外壕

吉野ヶ里丘陵の袖部を巡るように外壕が掘削されており、外壕で囲まれた範囲は南北1km以上、東西は最大で0.5km以上、面積は約40haと考えられています。
基本的には丘陵袖部の傾斜が緩くなった部分に掘られていますが、北部では北墳丘墓を取り囲むように、丘陵部に上がっています。
断面の形態は南西部低地で逆台形となっている以外はV字形です。なお北墳丘墓周辺の外壕については未発達のため遺構保存の観点から平面逆台形に復元しました。
発掘時の規模は幅2.5~3.0m、深さ2mが一般的で、最大の部分は幅6.5m、深さ3mです。
堆積土層は地上ローム土が地形的に低い壕の外から堆積しているため、壕の外に土塁が存在したものと考えられます。
環壕集落の外縁を画する外壕は北内郭、南内郭に比べて規模が大きく、深く中世の城郭に見る「空堀」のような状態であり、防御的性格の強い施設と想定し、土塁上に柵列を設けました。
また壕との位置関係から、櫓であったと想定される建物跡に櫓を設置しました。








王と妃






主祭殿
吉野ヶ里のクニ全体の重要な事柄を決める会議を行ったり、祖先の霊への祈りや祀りを行ったりした、中心的な建物と考えられています。
柱の太さ・間隔から3層2層建ての高床建物となると考えられ、古代中国の建物に関する記録や民族(俗)例等から、中層と上層は異なる機能を持っていたと想像できます。
中層部分は政治の場と想定し、また、祭りの際には直会の場としても利用された物として、共同体にとっての重要な決定を行う際の支配層の集会を行う場としました。
上層部分は南北の主軸が一致する建物はもっとも祭祀性の高い場であったことが考えられるため、最高祭祀権者が祖霊に安寧と豊饒の祈りをささげる場として復元しました。


主祭殿2階

吉野ヶ里のクニ全体の重要な祀りが開かれており、吉野ヶ里の王やリーダーたち、さらには周辺のムラの長が集まっています。




主祭殿3階

祖先の霊のお告げを聞く祈りを行っています。この結果は従者によって2階で会議を行っている王やリーダーたちに伝えられます。











高床倉庫

北内郭に接する場所に建てられている高床の建物です。北内郭や北墳丘墓での祀りに使われる道具や宝物などの貴重な品々が収められていたと考えられています。

北墳丘墓~歴代の王の墓~

吉野ヶ里集落の歴代の王が埋葬されている特別なお墓と考えられています。このお墓は人工的に造られた丘で、違う種類の土を何層にも積み重ね、しっかりと突き固められて造られており、とても丈夫な構造になっています。中からは14基の甕棺が見つかり、ガラス製の管玉や有柄把頭飾銅剣が一緒に収められているものもありました。このお墓は弥生時代の中頃、紀元前1世紀のものですが、その後はお墓としては使われなくなり、その代わり祖先の霊が眠る場所として人々から大切にされていたようです。


外壕は、丘陵袖部を巡るように掘削されており、外壕で囲まれた範囲は、南北1km以上、東西は最大で0.5km、面積は40ha以上と考えられます。
基本的には、丘陵袖部の傾斜が弱くなった部分に掘られていますが、北部では北墳丘墓を取り囲むように丘陵袖部に上がっています。断面形態は、南西部分は逆台形、それ以外の部分はV字形を呈します。規模は幅2.5mから3m、深さ2m前後が一般的で、最大の部分は幅6.5m、深さ3mを測ります。

堆積土層に関しては、地形的に低い壕の外からも地上ローム土が堆積しているため、壕の外に土塁が存在していたものと考えます。



玄米や有明海でとれたムツゴロウにあさりなどを吉野ヶ里伊勢にいた縄文人が食べたであろう食材使った縄文定食を食べた。 

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