最後はここにきた。
実は今回は私自身広島は2回目の訪問だ。
1回目のとき見落とした案内看板には『屋内で仕事中の従業員は全員即死だった。』と書いてあった。これだけ近くなのでそうかもしれないが、なんだかやるせない気持ちになった。
アメリカ人のほとんどが原爆のおかげで戦争が早く終わったと学校で教えられていて、その情報を鵜呑みに原爆を肯定する者が多いと聞く。
そういう輩には、一度広島にきてその目でみてほしい。いったい何が起き、どうなったかを…
その目でみて感じて想像してほしい。みた後に原爆を肯定できるのかを聞いてみたい。
それだけ悔しい気持ちになった。
爆心地(頭上600m地点で爆発したとのことだった。)
この建物は、大阪に本店を持つ大正屋呉服店が、対岸の細工町から中島本町(現在の位置)に新築移転したもので、瓦屋根の木造家屋が続く町並みの中で、当時としてはめずらしい鉄筋コンクリートのモダンな建物だった。
目新しさは、建物の構造だけではなく、1~3階はショーウィンドウのある売場で当時としては珍しく履物を履いたまま上がれるようになっていた。
建物の屋上からは市内が一望できた。
戦時体制により、1943(昭和18)年12月に発令された繊維統制令により呉服店は閉鎖される。
1944年(昭和19年)6月に、経済活動を統制することを目的とした国策の統制会社である広島県燃料配給統制組合が建物を取得し、「燃料会館」と呼ばれるようになった。
爆心地から170mにあった建物は、原爆により屋根が押しつぶされ、内部も破損、地下室を除いて全焼した。
しかし、爆心地の近くでありながら爆心地側に開口部のほとんどない強固な建物だったためか、基本的形態はとどめた。
被爆当日、この建物には37人が勤務していましたが、たまたま地下に書類を取りに下りていた1人を除いて、全員死亡した。
コメント