アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所は、ナチス・ドイツが第二次世界大戦中に国家を挙げて推進した人種差別による絶滅政策(ホロコースト)および強制労働により、最大級の犠牲者を出した強制収容所である。収容者の90%がユダヤ人(アシュケナジム)であった。詳細は下記
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[食事について]
 収容した側された側双方の証言によると、食料の奪い合いが個人やグループ間で日常的にあったとされる。公式には重労働者に2150キロカロリー、一般労働者に1700キロカロリーの食事を与えるという規定があったが、現場監督によって量は左右され、監視兵に厨房の食料を奪われるなど、実情はかけ離れていた。配給量についてはさまざまな証言があり、ポーランド国立オシフィエンチム博物館に展示されている「朝食:約50CCのコーヒーと呼ばれる濁った飲み物(コーヒー豆から抽出されたものではない)。昼食:ほとんど具のないスープ。夕食:300gほどの黒パン、3グラムのマーガリンなど」は一例で、実際は被収容者間のヒエラルキーや個々の労働能力、さらには収容時期によって待遇にかなりの差があったと見るのが自然だろう。実際、1943・1944年以降は「業績に連結した食料配給体制」が多くの労働者に対し実施されている。この制度は生産の全量的向上を目的としており、戦況悪化に伴い厳しくなった食料自給環境において、生産性の高い労働者に優先配給を行うというもの。一般的ドイツ人の業績を基準に、業績の良い労働者に多く配給し、逆に悪い労働者は以前よりもさらに減らすというものだが、もともとほとんどの被収容者は一般成人が一日に必要とするカロリーに遠く及ばない量の食事しか与えられていないなかで、比較すること自体無理があり、不幸にも減らされれば死は確実になるばかりである。生き抜くためにほんのわずかな増加分を得ようとする「人間の精神力」に期待しての制度であり、結果として被収容者同士が食料を奪い合うことが日常的にあったというのは、いかにその状況が過酷であったかを表している。  
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この絞死刑台でアウシュビッツ強制収容所処刑台責任者が戦後処刑されました
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戦後、強制収容所の責任者の絞首刑が実施された死刑台。ガス室と目の鼻の先にある。

[ガス室]
貨物列車が絶滅収容所に到着すると、看守が移送者に、列車から降りて整列するように命じる。その後、犠牲者達は選別され、男性は、女性や子供とは別々にされました。通常は親衛隊の医師であるナチスが1人1人を手早く診て、強制労働に耐えられる健康の持ち主かどうかを判断し選択した。乳児や幼児、妊婦、老人、障害者、病人はこの最初の選別で生き延びるチャンスはほとんどなかったという。

死を選択された人々はガス室に案内される。パニックを防ぐため、収容所の看守は犠牲者に、シラミを取り除くためにシャワーを浴びるのだと言いい、貴重品を全部渡して服を脱ぐようにと指示した。その後、彼らは裸で「シャワー室(偽のシャワーヘッドを備えたカモフラージュされたガス室)」に入れられ、看守が鉄の扉を閉めて錠をかけた。ある絶滅収容所では、配管を通してガス室に一酸化炭素が流し込まれました。別の収容所では、看守が通気孔から「ツィクロンB」のペレット剤を投げ込みました。ツィクロンBはネズミや虫の駆除にも使われる猛毒の殺虫剤だった。
ツィクロンBのペレットはすぐに致命的なガスに変わる。パニックと空気のあえぎで、囚人はドアに到達するためにお互いを押し、突き、そして登った。しかし、逃げ道はない。天候にもよるが、5分~20分で窒息死した。
監視下で、囚人たちは死体を隣の部屋に引きずって行き、髪の毛、金歯、詰め物などを剥ぎ取るように強制され、遺体は焼却炉のオーブンで焼かれるか、集団墓地に埋められた。

遺体からの略奪品は利益を生んだ。収容所の看守は金の一部を盗み、残りは溶かされて親衛隊の銀行口座に預けられた。民間会社は毛髪を買って、船のロープやマットレスなどのさまざまな製品を作ったりした。1641459176212
ガス室外部
強制収容所では大量虐殺が行われたため大量の死体処理が問題になったが、この死体を無差別に大量火葬する施設がクルト・プリューファーのもとトップフ・ウント・ゼーネ社により建設された。
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ガス室内部
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「ツィクロンB」の空き缶
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「ツィクロンB」(青酸ガス)
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第二収容所へ
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レンガつくりではなく木造バラックだった。


第二収容所はバラックと言うべき非常に粗末な作りで、もともと、ポーランド軍の馬小屋であったものや、のちに一部は基礎工事なしで建てられたため床がなく、上下水道が完備されていないため地面は土泥化していた(汚水は収容者が敷地内に溝を掘って流した)。暖房は簡素なものがあったが、燃料の供給はされなかったと言われ、なぜこのような暖房設備が作られたのか、理由は不明であり、隙間風がいやおうなく吹き込み役目を果たしていなかったと言われる。排水がままならない不衛生なトイレ(長大な縦長の大きな桶の上にコンクリート板を置き、表面の左右に丸い穴をあけただけのもの)を真ん中にはさむ形で三段ベッドが並べられ、マットレス代わりにわらを敷いて使用した。
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