2012年10月

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午前中は富士山がくっきり見えましたが、午後からは雲がかる様になってしまいました。(午前中のシャッターチャンスを逃してしまいました。)天候は晴れ心地よい秋の日差しの中での練習でした。

そして、今日一つ嬉しい出来事がありました。

それは、師匠から「今日は安心して見ていられた。随分とうまくなった。」と三ツ峠に練習に通いだして5ヶ月目にして初めて師匠からクライミングに関して褒めて頂きました。
師匠は滅多なことでは人を褒めないの性格なので、更に嬉しさ倍増であります。

頑張ったご褒美に、師匠からの提案で次回からは、雪がないけどあえて雪山用登山靴に12本歯アイゼンつけてグローブはめての冬季バリエーション登攀の練習をしようとおしゃって下さいました。

ようやく冬季バリエーション登攀という僕の夢への一歩を踏み出す事ができた記念すべき日となりました。

短期間でここまで(冬季バリエーション登攀の第一歩を踏み出す事)こられたのも師匠のお陰です。
お忙しい中無償で僕みたいな超初心者に一からいやな顔一つせずに、教えてくださり本当にありがとうございましたm(_ _)m

よーし冬季登攀練習もこの調子でやったるでー(^O^)/

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要因をこうしてまとめてみると、雪山登山にもほとんど当てはまる事に気がつきました。

気の緩み、驕り、装備品知識不足、悪天候、リスクマネージメントの欠如

一つでも該当すると重大な事故につながる危険性が高くなる。どれも雪山にとってかけてはいけない事だと思います。

僕も驕りや気の緩みによって、山でルートを完全に見失ない危うく遭難しかけた経験が何度かあり、装備品知識不足でいうと、冬山登山をするのにスノーボード用のグローブを使って登ったので、途中で雪で完全にビショビショになり凍傷になりかけた事もありました。
登山以外では、遠泳レースに参加した時、水温が例年よりかなり低いと言うことを事前にしっておきながら、周りはほぼ全員ウェットの中、僕だけ海パン一丁ではりきって参加してしまい長時間にわたり低温に体を晒した結果、低体温症になりゴール後ひっくり返えって、まったく動けなくなってしまったりと...僕も、思い当たる事ばかりです。

この事件を改めて個人的に見直す事によって以前の僕にとって見えなかった学ぶべき事が沢山見えてきました。
今シーズンの僕の雪山登山は、バックカントリーを含めて先シーズンよりもよりタイトな登山をしようと考えています。
いま一度、自己を見つめ直しこの教訓をしっかりと胸に刻みいかしていきればとの思いです。


(写真)
銅像前で目を閉じる。小説や映画で見た光景が、鮮明に浮かんでくる。
まだまだ人生の1/3も生きていない若い隊員達が猛吹雪の中次々とバタバタと倒れて行く、壮絶な現場が脳裏をよぎる。
志半ばで亡くなるなれた隊員達の無念を考えると気の毒でなりません。
この事件が今後もずっとずっと決して風化されることなく人々の間で語り継がれ、この悲惨な事故から学んだ教訓が色々な現場で生かされる事が亡くなられ隊員達のなによりの供養になること思います。

この事故で亡くなられたすべての隊員達のご冥福を心からお祈りいたしお悔やみ申し上げます。
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写真下:酢が湯温泉旅館

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本や映画やネットで調べてみたのですが、
原因は、準備不足、知識不足、稚拙な装備、指揮系統の乱れなどあげられていますが、最大限の要因は、行軍中の天候の激変が生存へのパーセンテージを一気に下げ致命傷になってしまったような気がします。
この悪天候のきざしは気象台によって予報されていたたにもかかわらず、行軍の中止をしなかった事が更なる悲劇を呼んでしまったのではないでしょうか!?


最後に遭難要因を僕なりにまとめてみました。

1、隊員達の気の緩み
本番の行軍意識した試行軍行うも、好天にも恵まれ苦労する事なくあっけなく目的地までついてしまった。
その事によりほとんどの隊員が、本番行軍を楽観視しはじめ気が緩んでしまった。


2、装備・知識不足
行軍に参加した隊員のほとんどが宮城や岩手出身で豪雪の八甲田地域以外の隊員だったために、山間部の積雪対しての装備や豪雪や吹雪に対する知識が乏しかった。


3、指揮系等の乱れ
当初指揮権は、半年をかけてこの行軍に対しての準備や下調べに奔走した行軍慎重派の神成大尉にあるはずだったのですが、行軍の途中、なぜか指揮権は行軍楽観派の彼の上司である山口少佐に移る事になり、その指揮系等の乱れにより隊は混乱してしまった。

4、天候の激変
天候の激変に対して、神成大尉もちろん軍医はじめ行軍慎重派は事前に情報をつかんでいたにもかかわらず、山口少佐に行軍の中止を進言するも、山口少佐の取り巻きの行軍楽観派により却下されてしまう。

5、将校達の驕り
行軍慎重派が当初依頼していた地元の案内人を行軍楽観派が勝手に帰してしまい、猛吹雪の中コンパスを便りに進軍したため道を見失い、吹雪の中何日もさよう事になる。

6、混乱時によるリスクマネージメント欠如
道を見失い帰路を探す途中、極限状況により錯乱した将校の話を鵜呑みにし道案内役に抜擢してしまう。これにより被害拡大してしまう。
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(写真)
銅像から八甲田山をきれいに望む事ができました。

伍長が発見された地はここより二キロ青森よりだったそうです。

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〈事件の概要の続き〉
神成大尉の命を受けて遭難の事実を知らせ救援隊の要請をするため、命がけで田茂木野に向け向かった途上で仮死状態となっていた後藤房之助伍長が1月27日に捜索隊に発見されたことから、遭難の詳細が判明しましたが、最終的に生存したのは11人のみであった。(なお、このほか山口少佐以下6名が救助されたが、治療の甲斐なく死亡)

生存者のはぼ全員が凍傷により足や手の切断を余儀なくされた。

4年後の1907年、神成大尉の命を受けた伍長後藤房之助が遭難の事実を知らせ救援隊の要請をするため、命がけの行進した功が認められ銅像が立てられました。
しかし、後藤房之助本人は当時の連隊長に「よく見ろ」と言われたが、照れくさくなかなか見ることができなかったといいます。
彼は遭難の話はあまり話したがらなかったそうです。

なお、発見の地は銅像よりも数キロ青森よりの場所である。銅像建立の場所は青森湾を見渡すことのできる馬立場付近で、第二露営地(1/24)と第三露営地(1/25)の間であります。

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銅像は、結構歩かないと見つける事ができず、僕が思ったよりずっと距離がありました。

慰霊碑までスニーカーだったのでスノーシューを履いていてもぬれてしまいました。

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さてさて八甲田雪中行軍遭難事件とは、どの様な事件だったのか下記にウィキペディアを参考にまとめておきました。

〈事件の概要〉
八甲田雪中行軍遭難事件(はっこうだせっちゅうこうぐんそうなんじけん)は、1902年1月に日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が八甲田山で冬季に雪中行軍の訓練中に遭難した事件。

訓練への参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)する、山岳遭難事故としては、世界最大の死傷者が発生したことで有名です。

遭難したのは、青森を衛戍地とする歩兵第5連隊である。部隊の指揮を執っていたのは、第2大隊の中隊長で陸軍歩兵大尉の神成文吉(かんなりぶんきち)である。但し、大隊長で陸軍歩兵少佐の山口 が、随行という形で参加したにもかかわらず、行軍の途中から指揮権を握ったようです。この式系統の乱れがその後の大惨事の引き金となってしまう。

神成文吉大尉は、当時の上官将校のほとんどが士族出身という中、平民出身者というハンデをおしのけ、見事陸軍歩兵大尉までなった努力の人だった。

この行軍に関しても半年前より事前下見はもちろん、案内人を依頼するなど準備周到に計画を立てていたそうです。
しかし、蓋を開ければ行軍は、彼の上司である山口少佐が指揮を握る事になり、神成大尉の行軍計画はものの見事に崩れ去り、頼み綱である案内人まで帰されてしまいます。

最初から最後まで神成大尉が全指揮権を握っていたならば、僕個人的にはこんな大惨事にはならなかったようなきがします。


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事故資料館にもなっている銅像茶屋です。

銅像はこの茶屋の上にあり、この時期(冬季や残雪期)銅像まではスノーシューを持っていないと銅像までたどり着く事ができないとおもいます。

念の為と思いスノーシューを持ってきたのですが幸いしました。

何人か銅像お目当ての観光客にお会いしたのですが、積雪のため全員途中撤退を余儀なくされていました。

茶屋は、冬季や残雪期は休業とのこと。

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