2014年05月

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これにて今シーズンの雪山は終了。雨飾の件は、多少消化不良であったが、前回から引きずっていた精神的負のイメージをほぼ払拭できてよかった。白馬岳BCいってよかった。

登山はひとまず小休止にして空いた時間は、師匠とのクライミングトレーニングにあて、
登山的な動きは、エルブルスに向けて高度順化の為に富士山にかよいまくろうと考えています。

あと、海外放浪中は結構英語使う機会があったのですが、今はあまり使う機会がないので、すっかり退化(もともとたいした英語力ではないがもっとたいした英語力でなくなってしまっている。)してしまっているので、山で使いそうな山岳単語やもう一度英会話の勉強でもしようかとも思っています。

最後になりましたが
来月上旬よりしまなみ海道横断と四万十川カヌー遠征を計画中です。

実はカヌーでも海外遠征を狙っていてスキルアップの為に遠征してします。

綺麗な写真たくさんとってきます。
乞うご期待です。

写真上)かんじき

写真下)
僕には忠実な友がいる。
ハングリー1号(格安クロスバイク)
ハングリー2号(5000円スノーボード)
ハングリー3号(無償にて頂いたカヌー)である。
この3号を使って四万十川を下るつもりだ。

ではロッケンロー(笑)

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八幡原にあった博物館に立ち寄った。
昔の庶民の暮らしコーナーでは胴蓑やかんじきやワラジなども展示していた。
これらの雪国の道具は、テレビや映画等々では何度も見た事があったのですが、実物を見るのは実ははじめで、触って見ると意外にしっかりしたつくりにびっくりした。

佐々成政のさらさら越えなんかもこの様な道具を使って厳冬期の北アルプスを超えたのかと思うとその意気込みに胸があつくなった。

僕のやっていることはまだまだ甘っちょろいもので、僕なんかがいうのは大変おこがましい事なんですが、多少なり体をはってきつい事辛い事に挑戦しているとだんだんと慣れてきて、ちょっとの事では動じなくなる。僕如き位でもそうなのだから、佐々成政さんほどの方、きっと生死の狭間で何度も生還し続けてきたのだろうと推測する。気合いの入り方が常人と違う。
そういう方だからこそこの道具でも厳冬期北アルプス縦走もやってのけてしまうんだろうなといたく感動してしまった。
写真)胴蓑とわらじ

〈さらさら越えついて〉
 佐々成政は天正12年(1584)の暮れ、今の暦でいうと1月2日に富山城を出発して、立山連峰・後立山連峰を越え、そして、浜松の徳川家康に会いにいった。このことは家康の重臣が著した「家忠日記」にも「12月25日、越中の佐々内蔵助、浜松へ越し侯」と書かれています。「さすがは豪勇な佐々成政よ」「奇跡だ、神業だというほかはない」と驚き絶賛した者もあれば、「寒の時期にあの北アルプスを越えるとは、なんと無謀な猪突猛進の行為だ」と嘲笑う人もいました。なぜなら、厳冬期に八山八谷の北アルプスは、妖怪が棲んでいるとまで言われ、恐れられていたのです。何よりも積雪が18~20mもあり、雪崩も多く、また、零下20~30度と極寒の山岳地域です。今の最新の装備と屈強なプロ登山家でも達成できる確率は結構低いかもです。「伝説」と言われるのも無理はないのです。

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写真上)対上杉戦を優位にする為、築城されたという武田方の海津城
写真下)謙信が敗走した先の善光寺

天才同士の戦い、今でいうなれば、

AV加藤鷹と蒼井そらも一戦
!!いや失礼m(_ _)m

イチローとダルビッシュとの一戦!!といった感じで先読みのし合い将棋のようでとても見応えがあった。
HITORI川中島これにて終了でござる。
では、ロケンロー(笑)

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写真)八幡原にて
ここで信玄謙信の一騎打ちがあったとされる。

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〈川中島の戦いその2〉
完全に裏をかかれた武田本隊は、防戦一方になり武田信繁や山本勘助など名だたる重臣が討ち死にするというほど劣勢であった。

武田本隊の陣形が崩れた瞬間を狙い謙信が信玄本陣につっこみ信玄と一騎打ちになったともつたえられる。
妻女山から戻った武田別働隊合流後は、立場が逆転し上杉軍がおされはじめる。
さすが上杉軍も挟撃にあっては太刀打ちできず、善光寺に敗走した。

写真上)
上杉謙信本陣跡の陣馬平

ここへは登山道がない。
軽い藪漕ぎをしながら進んだ。ここまでくる歴史マニアも少ないという。

写真下)
妻女山展望台から見た長野市内

ここから海津城から上がる炊煙量で武田軍の動向を先読みしたのだろう。まさに軍略家としての天賦の才を持つ謙信に感服した。

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